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自己紹介

波瀾万丈な人生 自己紹介
自己紹介 - かめおぶろぐ - DV家庭- 起業- メジャーデビュー-転落- 復活- 月収100万到達まで

はじめまして、かめおと申します。
41才、IT系企業で管理職をしていましたが、2022年4月末をもって会社を辞め、サイドFIRE生活を送っています。
2020年秋頃からサイドFIREについて学び始め、具体的にサイドFIREにに向けて動き始めたのは、2021年に入ってからですが、順調に副収入も増やすことができ、1年数か月でサイドFIRE達成することができました。
このブログでは、今まで実践してきたノウハウや、サイドFIREへの過程で得たノウハウを惜しみなく公開していこうと思っています。
この記事では僕の幼少期から現在まで、どのような生き方をしてきたかについて書いています。

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「かめお」という名前の由来

なぜかめおなのかと言うというと、1匹のクサガメを30年間飼っているからです。
女の子なので「かめこ」と言います。
いまだに飼い始めた頃とほどんど変わらず、元気で、僕の姿を見れば寄ってきます。
またクサガメは交尾をしなくても、毎年卵を産卵するのですが、今年もすでに10個近く産卵しています。

幼少期

DV家庭時代

僕は都内の一般家庭の長男として生まれました。
長男と言っても一人っ子でした。
僕が記憶している限りでは、小学校3年生の頃から両親の夫婦喧嘩が始まりました。
僕が就寝後に、父が帰ってきて、母と口論しているような日々でした。
僕は毎晩寝たふりをしながら、話の内容を聞いていましたが、どうやら父に愛人ができたようでした。
初めて母から「離婚」という言葉が出たときは、寝たふりを抑えきれずに母と号泣したことを覚えています。
その後、夫婦喧嘩はエスカレートし、父が母に暴力をふるうようになりました。
ある日僕が帰宅すると、母がどこかケガをしているようでした。
小学生の僕でも、父が暴力をふるっていたことは明らかでしたが、母に理由を聞くと
「転んじゃってね。」
と、僕に気遣う様子でした。

1000円が一生の価値になった理由


小学校5年生のころ、母と訪れた銀座の松屋デパートの屋上に、当時はペット売り場があったのですが、そこで今も飼っているクサガメの「かめこ」と出会いました。

クサガメの幼少期は「ゼニガメ」と呼ばれているのですが、まさに銭(コイン)くらいのサイズしかなくて、目がクリクリで手足が短くて、びっくりすると甲羅の中に全部引っ込んじゃうという愛らしさと、臆病なのに非常に人懐っこい感じがたまらなくかわいくて、一目惚れして飼うことにしました。
値段は1,000円でしたが、お小遣いで買いました。
それから父と母の壮絶なバトルは続きましたが、つらいときはいつもかめこがそばにいてくれました。
かめこと出会ってから30年経ちますが、ただ長生きしているだけではなく、本当に心の支えになってくれてくれたし、たった1,000円でも莫大な価値を僕にもたらしてくれた存在です。
もしもあの時、犬を飼っていたら、おそらく15年前にはお別れしていたでしょう。
僕にとってはこの時払った1,000円は、どんな高価な血統書がついたペットよりも大きな価値だったことは、言うまでもありません。

かめこが30年生きられているのはこのエサのおかげだと思っています。

このエサを与え続けて、今まで一度も大きな病気をしたことがありません。

中学時代 音楽に目覚める

中学に入学すると友達の影響でXJAPANにはまりました。特にギタリストのhideさんに強く影響を受けました。
当時まだ将来何になりたいか定まっていませんでしたが、この時にギタリストになりたいと強く思うようになりました。
中学3年生の時に初めてギターを買い、独学でひたすら練習する毎日が始まりました。

高校時代 初めてのバンド結成

高校に進学すると、ほかの部には目をもくれずに音楽部に入部しました。活動内容はバンドを組んで練習して定期的に発表するという活動です。いわゆる軽音楽部ですが、うちの高校は音楽部という名称でした。
そこで出会った同級生部員と人生最初のバンドを結成しました。
僕はほかの部員より少しだけ早くギターを始めていたので、比較的最初からちやほやされていました。

定期演奏会で実力を認められ、文化祭では1年の中では一番良い出演順にしてもらいました。

2年生の時は、文化祭のみならず、後夜祭にも2年生で唯一僕だけがゲストとして呼ばれて出演しました。

3年生の文化祭では校内で唯一オリジナル曲を披露しました。

このような経験から、よりプロのギタリストになりたいという気持ちが強くなっていきました。

大学時代 インディーズデビュー

僕の高校は大学の付属校だったため、定期試験を普通にこなしているだけで大学受験をしなくても大学に行けました。
プロミュージシャンになることしか頭になかったので、当時は大学に行くか行かないかなんて正直どうでもよかったんですが、4年間ある程度自由に音楽ができる時間が作れると思ってそのまま進学しました。

入学後、音楽サークルに入ったのですが、あまりがっつり音楽をやるという空気間ではなくどちらかというと飲み会がしたいというノリだったのですぐ辞めました。

大学1年生の頃は、高校の時に組んだメンバーでライブハウスに出るようになりました。
最初は高校の後輩とか友達がライブを見に来てくれていましたが、徐々に来なくなり、メンバーも一人ずつ抜けていきました。

結局メンバーは僕以外誰もいなくなってしまったのですが、大学で同じクラスだったやつと意気投合して二人でメンバーを探すことにしました。

その後なんとかバンドを再び組むことができ、インディーズでCDを出したり地方へツアーに出掛けたり、雑誌の取材を受けるようになりました。

初めての起業

順調にバンド活動をしていきましたが、時間はあっという間に過ぎ去り、大学の卒業を迎えることなりました。

我が家は相変わらず親の夫婦仲は最悪でしたが、大学の学費は出してくれていたので、大学の卒業が近づくにつれ大学を卒業しても就職しないでバンド活動を続けるのは申し訳ないという気持ちが徐々に芽生えてきました。

そこで考え付いたのが起業でした。自分が社長になってしまえば誰にも後ろめたくないと思いました。

とはいえ大学でも具体的に起業の仕方なんて教わりませんでしたので、とりあえずよくわからないから本屋に行って起業に関する本や、集客に関する本など何冊も買って読みあさりました。

当時は株式会社を設立するのに資本金1000万円が必要だったのですが、そんなお金はなかったので、いまはほとんど登記されることのない合資会社を設立しました。

事業内容はマネージメント業務、プロダクション業務、イベントの企画・制作、グッズ制作・販売などです。

社員は実質僕一人で、デザイン関係や衣装製作、イベントスタッフなどはその道の専門学校の学生などにその都度格安で仕事を依頼するような感じで運営していました。

今でいうココナラ等で外注するみたいな感じですね。

ココナラ

事務所の住所はバーチャルオフィスを使っていました。バーチャルオフィスとは、住所だけを借りて、郵便物が届いたら転送してくれるサービスです。当時は月に数千円で渋谷区の一等地の住所を借りることができ、電話も03から始まる電話番号を借りて携帯電話に転送してくれるサービスを使っていました。

株式投資を開始

24歳の頃、父が実家を出ていきました。僕は何とか母の力になれないかと思い、株式投資をして少しでもお金を増やそうと思いました。その当時は特に株式投資の勉強などはせず、とりあえず口座を作ってやってみました。

チャートだけを見て、株価は安いけど値上がりしている個別株にチビチビ投資してみました。しかしそんな方法では当然勝てるわけもなく、数万円の含み損をして1年ほどで株取引を止めました。

父の死

父は実家を出ていってから体調を崩し、難病と診断されました。僕の幼い頃、父は体格が良く母を殴り倒し暴力で家庭を支配していましたが、父が入院したと聞きお見舞いに行くとそんな面影は一切ありませんでした。
母が今まで殴られた分を父にそのまま返したら恐らく即死するのではないかと思うほどやせ細り、小さくなってしまっていました。
僕のメジャーデビューが決まる1年前の11月30日未明、突如外務省から電話が入りました。
「お父さんが亡くなったので、ハワイに行ってください。」
?が頭の中でいくつも浮かびました。
父が亡くなったのは本当なのか?
何でハワイなのか?
パスポートとか持ってないしどうしたらいいのか?
思考が一瞬で滅茶苦茶になりました。

どうやら病気が少し落ち着いたから、愛人とハワイに旅行に出掛けていたらしく、その旅行中に乗船中にマウイ島近くの海の上で亡くなったようです。
結局母とは離婚せず、愛人とは籍を入れていなかったので死亡手続きなどは親族である僕か母がやらないといけないから、今すぐハワイに来てくれということでした。
僕も母もパスポートを持っていなかったんですが、外務省の計らいで1~2時間ほどで発行してくれるとのことでした。
通常パスポートが発行されるまでは、申請から1週間ほどかかりますがこのような事態のときはすぐ発行してくれます。
家の最寄りのパスポートセンターに行き、即パスポートを発行してもらい、その足で成田空港からハワイに向かいました。

火葬する直前の父は、生前に最後に会ったときよりも少し大きくなっていました。ハワイらしい花の首飾りを父の首にかけましたが、とても冷たかったのを今でも覚えています。
その後火葬し、灰になった父をかかえてホノルルの保険省で手続きをして帰国しました。

メジャーデビューから引退

その後、余曲折を経てメジャーデビューすることになりました。メジャーデビューして4年ほど活動した後にミュージシャンとしては引退しましたが、その間に海外でライブをしたり、テレビやラジオに出演したり、普通に生きていたら体験できない体験を沢山させてもらいました。
引退した理由は、人間関係の問題と10代20代の頃に比べて音楽で成功したいという意欲があまりなくなってしまったからです。

廃業

ミュージシャンとして引退した後も、後輩のミュージシャンのプロデュースや、ライブイベントの企画・制作等の事業は継続していたのですが、やはり自分たちのバンドありきの事務所だったので、その後の経営は不振になり、やむを得ず事業規模を縮小し、小規模のイベント企画・制作だけをやっていくことにしました。
そうなると当然収入が激減することになってしまうので、手あたり次第に仕事を探しては面接に行きました。
当時33歳になる年齢でしたので、いきなり正社員になるというよりはアルバイトでも良いから雇ってくれる会社を探しました。
何社か受けて、やっと1社アルバイトとして入社することができました。
それが現在働いているIT企業です。
最初のうちは週5日間アルバイトをしながら、自分の事業のために月に1日だけ休んでイベント制作をしていました。でも正直な話、あくまでも自分がミュージシャンとして活動していた時は自分で事業をするのは楽しかったのですが、好きでも嫌いでもないミュージシャンのイベントのために企画・制作をするのは全く楽しいと思えなかったので徐々に自分の事業に対しても熱量が下がっていきました。
アルバイトとして今の会社に入社して1年後、僕は自分のすべての事業を廃業しました。

アルバイトから管理職へ

事業をすべてやめたちょうどそのころ、会社の方から「正社員にならないか」という話をもらいました。
僕は大学生のころからバンド活動や起業を通じてマーケティング力がある程度ついていたので、その辺を会社から評価されて、ほかのアルバイトよりも早く社員に抜擢されました。
社員として1年間働き、その翌年には管理職になりました。

体重増加

バンドマン時代は月の半分くらいをリハーサルやライブ等で埋まってしまうことがよくありました。そのため、普段意識して体を動かそうと思わなくても、体を動かさざるを得ない環境にいました。
でもIT企業で自分の席からほとんど動かないような仕事へと変わり、年齢による新陳代謝の低下も重なって徐々に太っていきました。
36歳の時に初めてジムに行きましたが、その当時はまだ週に1日~2日しか行かなかったので、その後は中途半端に筋肉がつき、余分な肉もつき、38歳になるまでに10キロ増えてしまいました。

半年で10キロ減量

38歳のゴールデンウィークのとき、座っているのがつらくて仕方がなく、血栓を疑って病院に行きました。
MRIを撮ってもらったんですが、医師の診断は腰のヘルニアということでした。幸い、投薬治療だけで大丈夫とのことだったんですが、体重が増えたのも一つの原因だと考え、ダイエットしようと思いました。
このときすでに初めてジムに行きだしてから3年以上経過していたので、ダイエットや筋肉に関しての知識は結構ありました。
このときからジム通いを週5日にしました。仕事終わりにジムに行くと帰りが遅くなりそうなので、早起きして仕事前に行くようにしました。
結果として半年で10キロの減量に成功しましたが、減量に成功したことはもちろん一つの目標達成ではありましたが早起きの習慣が身に付いたことは大きな一歩前進でした。
早起きの習慣で人生が変わったことは間違いないと思います。

詳しくは

人生を変えた最強習慣

僕が実際に行ったトレーニングについては

つらくない10kg減量の方法


をご覧ください。

人生のゴールを見直す

10キロ減量した年の夏頃、僕が管理しているチームの売上が激減しました。会議では毎週上司からいびられていました。
ある日、社長から「もっと勉強しろ」と言われました。社長は同い年だということと、僕が負けず嫌いということもあって、その瞬間めちゃくちゃ悔しくなりました。
バンドマン時代、経営者時代にマーケティングは学んではいましたが、それから数年経過していたので当時の知識や経験だけでは勝てないと思い、その日以来マーケティングやリーダーシップ、経営について書かれた本を読み漁りました。
そこでつけた知識を仕事でアウトプットするようになってからは売上がV字回復しました。
それを期に、仕事について書かれたビジネス本や自己啓発本を読むことが趣味になりました。「自分が知らなかったことがこんなにも沢山あるんだ」と、久しぶりにドキドキワクワクしました。
その後、知識武装をした僕は会社からもより評価されるようになり、とりあえず年齢の平均年収よりは多くの給料をもらえるようになりました。
一通りマーケティングやリーダーシップについて知識がつくと、違う本を読んでみたくなりました。僕は基本的にKindle等のネット書籍を読むことが多いのですが、「あなたにはこれもおすすめです」的なところに、お金について書かれた本がいくつも表示されていました。
正直お金について書かれた本などは読みたいと思ったことはありませんでした。
「読んだところでどうせ今と変わるはずもない」
くらいにしか思っていませんでした。
学校の先生からも親からも、
「お金が欲しければ働きなさい。」
としか教えてもらったことがなかったので、どうせお金について書かれた本の内容など、結論は「働け」なんだろうと思っていました。
そのため、あまり真剣にというわけではなく、その時一番評価が良かった本を暇潰し程度に読んでみることにしました。

僕が最初に読んだのはこの「Fire 最強の早期リタイア術」という本です。

・インデックスファンドにコツコツと投資
・株での儲けが生活費を上回るようになり、仕事を引退
・投資額の4%ずつ取り崩す生活をしていれば、投資元本は減らない
・世界中を旅して回る生活

ざっくりいうとこういう感じの本でした。
正直、一度僕は株で失敗をしているので、そんな夢みたいな話が本当に実現できるのか?と疑問に思えました。
でも僕が以前やっていた株式投資は、

・個別株に適当に投資

というスタイルでした。それまではインデックスファンドという言葉自体も知りませんでしたし、知ろうともしませんでした。
だからこれを機に、インデックスファンドというものをもっと知りたくなり、実際に僕も早期リタイアをして悠々自適な生活を送りたいと思うようになりました。

それからは仕事に関する本ではなく、投資やお金に関する本を読み漁るようになりました。
そこで得た学び、というか大体の本で共通して言っているような内容が以下の通りでした。

数々の書籍から得た教訓

・収入を増やすために転職、もしくは副業は必須
・貯蓄率を上げ、貯金ではなく投資するべし
・日本株ではなく、米国・全世界のインデックスファンドに投資するべし

何冊も同じようなことを言っているということは、おそらくこれが正解なのだろうと思い、僕も実践することにしました。
実際にこれらのことはどれも極端に難しいことはなさそうですし、やればできるんじゃないか。
僕もセミリタイアし、不労所得生活ができるようになるんじゃないかと思うようになり、それ以来僕の人生の目標はセミリタイアをし、悠々自適な生活を一生送ることに変わりました。

副業を開始

より収入を増やすために副業をすることにしました。
僕は今の仕事の給与や仕事内容に不満はないので、転職という発想はありませんでした。
まずはスキルもあまりいらないというせどりをやってみることにしました。
せどりの方法も色んなパターンがありますが、僕が実際にやったのは中国輸入せどりです。
詳しくは
誰でもできるカンタン副業~中国輸入せどり
に詳しく書きましたのでご覧ください。

せどりと並行して行ったのが、Webライターです。
Webライターの詳しい勉強法は
【2021年盤】Webライティング勉強法
で詳しく解説していますのでご覧ください。

ほかにも自分のこのワケアリな人生で学んだ教訓や知識等をnote等のコンテンツプラットフォームで販売したりしました。
これらの副業を、仕事の休憩時間や通勤時間、休日などの隙間時間を利用してコツコツ行いました。

株式投資を再開

副業開始とほぼ同時期に、株式投資を再開しました。
以前は日本の個別株で失敗しているので、まずはS&P500インデックスだけに10000円のみ投資して様子を見てみることにしました。
するとわずか1週間で11000円になりました。
その後も順調に増えていき、本に書いてあったことと同じような増え方をしていくことを自分の身をもって体感しました。

今ある貯金のほとんどを投資に回し、さらに毎月の所得を積立投資していったら、かなりの金額になることはもう分かっています。
でも一度失敗しているので、貯金の大半を投資に回す決断はなかなか出せませんでした。

そこで今一度、自分の人生を振り返ってみました。
起業、ミュージシャンとしてメジャーデビュー。
普通の人ではなかなか味わえない華やかな道をたどった後、アルバイトに転落。
やっとの思いで人並以上のステージにまで戻ってくることはできた。
でもこのまま夢もなく、一生社畜として働き続けるのか?それとも自分だけの金のなる木を作り、自由な日々を手に入れるのか?

僕は後者を選びました。
決断をした日、銀行口座にあった1100万円のうち、1000万円を

SBI・バンガード・S&P500インデックス・ファンド
楽天・全世界株式インデックス・ファンド
楽天・全世界債券インデックス

この3つに投資しました。

月収100万円到達

以上のことを実践していった結果、給与+副業+投資での利益で月に100万円を稼げるようになりました。
今も所得があるたびに、必要最低限の生活費以外はすべて投資に回しています。
投資資金は増え続けているので、投資からの利益は月日を追うごとに増えていっています。

所得税が300万円

順調に副業での売り上げが伸びていき、2021年末には副業の売上だけで月に300万円を超えました。

2022年になってから昨年分の確定申告書を作成してみたのですが、所得税の納税額だけで300万円を超える金額になってしまいました。

それなりの金額になるとは予想していたのですが、まさか300万円とはびっくり仰天でした。

僕は収入のほとんどを投資に回してしまっていたので、納税できる現金がありませんでした。

投資したお金を取り崩せばいいのですが、できればまだ1円も取り崩したくないと思っていました。

とはいえ確定申告書を作成したのが1月上旬だったので、納付期限までにはまだ2か月半くらいの時間的な猶予がありましたので、何とか副業を頑張って3月の納付期限までに300万円を用意することができました。

節税のためにマイクロ法人を設立

しかしやはり300万円納税するというのは、今まで源泉徴収で納税していた者からしたら痛手に感じました。

もっと節税できないものかと思い、近所の税理士事務所に相談したところ、法人化することが最も節税につながるとのことでした。

そして2022年3月にマイクロ法人、つまり1人会社を設立しました。

副業売上600万円到達、サイドFIRE

副業での売上は、2021年後半からは月200万円前後で安定していたのですが、12月に300万円を突破しました。

1月は調子が悪く190万円ほどだったんですが、大きく下がったタイミングでやり方を見直したところ、3月には600万円に到達しました。

4月から新年度ということで、僕が務めていた会社では新たな取り組みをスタートさせる動きとなりました。

でも僕は副業で月600万円を稼いでいたので、その新たな取り組みが面倒くさくて仕方なく感じるようになりました。

まだサイドFIREの目標資産額の5000万円には達してはいなかったのですが、さすがに月600万円稼げるようになってそれからまたまったく稼げなくなるような未来は見えていませんでした。

少し考えた結果、4月頭に会社を辞める決意を固めました。

会社とも相談し、最終出勤日が4月末となり、事実上2022年4月末でサイドFIRE達成という形となったわけです。

次の目標

とはいえ、達成したのはあくまでサイドFIREであり、完全なFIREというわけではありません。

現在は副業としてやっていたビジネスを自分のマイクロ法人でやっている形で、僕は自分の会社から役員報酬をもらっている形で生計を立てています。

暇な時間に仕事をして収益を上げられている形ですが、最終的には本当に何もしなくても勝手にお金が入ってきて、そのお金だけである程度贅沢してもまったくお金に困らない状態になるようにしたいと思っています。

そのためには引き続き投資を優先し、消費や浪費にはあまりお金を使わないようにします。

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